その19 フレデリック・バックさんとの再会

人形芸術の巨匠と歩んだ20年

1998年、川本喜八郎先生がカナダのアニメーション監督フレデリック・バックさんを飯田にお連れいただいたことがきっかけとなり、バックさんとの交流が始まった。

2004年には、かざこし子どもの森公園で、当時公園管理を受けていた野外教育研究財団(羽場睦美代表)が主体となり、フレデリック・バックさんをお招きしようということになった。そこでバックさんにお願いしてみたところ、「もう海外に旅することはできない。でもメッセージを贈るので、代わりに娘のシューゼルを招いてくれないか」と返事があった。それでシューゼルさんをお招きし、メッセージの代読と植樹をしていただいた。30ページに及ぶようなバックさんの熱い英文メッセージが届けられた。

平成記念かざこし子どもの森公園での植樹 左)シューゼル・バックさん

また、ある日の手紙では、私はバックさんに「『クラック!』(1981)の揺り椅子をいつか作ってみたいので、どうか認めてください」と申し出た。この時は単なる思い付きだった。

クラック!とは木を切るときに出る擬音で、これが作品タイトルとなっている。

木を切り出して揺り椅子を作り、椅子は愛されるがやがて捨てられ、また拾われて愛される。最後は、原子力発電所の予定施設がリノベされてできた美術館の、看守の椅子になって終わる。いわば「揺り椅子」が主人公である。

バック作品では「クラック!」と「木を植えた男」が2本連続でアカデミー賞を受賞している。

しばらくして、バックさんから1/1縮尺の揺り椅子の図面が送られてきた。やさしいタッチの手書き図面だった。私は大変な責任を負ったと思った。

2011年7月から東京都現代美術館において「フレデリック・バック展」が華々しく開催された。ご当人の来日はないと言われて続けていたが、ある日、急遽来日することになったと噂が流れた。

私はどうしても揺り椅子を見ていただきたかったので、自分で作ることは断念し、阿智村の工房菜や・水上雅彦さんにお願いした。材料はバックさんから「サクラかオークがいいよ」と聞いていたので赤く温かみがあるサクラを使ってもらった。

高齢の上に闘病中でドクターが付き添ってまでして、バックさんがなぜ急遽来日することになったか。開催の少し前の2011年3月11日に発生した東日本大震災が起因したと思った。原発事故により日本に滞在していた多くの外国人が母国へ帰国する中、だからこそバックさんは私たち日本人を勇気づけようと来日を決意してくれたのである。

原発はバック作品の中にしばしば登場する。人間が自然を支配すること、さらに人間のコントロールすらできないことに対する憎悪があった。

すべてのバック作品に通じる「逃げず、対立を好まず、向き合い続け、乗り越えて、共存していく」そんなバック作品の精神がここでも現れた。「作品そのままのような方ですよ」という川本先生の言葉が改めて思い返される。

やがて揺り椅子は水上さんの手により見事完成。あとはどうやってバックさんに見ていただこうか。バック展主催者のスタジオジブリの担当者にかけあった。「困るんです!会いたいという人が多くて。ドクターが付ききりなので、予定以外のスケジュールは絶対に入れるな、と厳しく言われているんです」と、けんもほろろの対応だった。それでも「バックさんご自身に話してみてください」と食い下がった。

後日連絡が入り、展覧会オープニングの日に特別にお会いすることが出来た。ジブリの担当者も格別の配慮をしてくれた。東京都現代美術館の関係者通用口から揺り椅子を持ちながら入室。優しい笑顔の変わらないバックさんと娘のシューゼルさんと再会し、しばしの感慨に浸った。

揺り椅子をバックさんに見ていただくと、「背もたれのカーブがいいですね。とてもよく出来ています」と喜んでくれた。私たち飯田人が後世に繋ぐことのできる宝物がまた一つ誕生したと思った。

持ち込んだ「クラック!の揺り椅子」に座るフレデリック・バックさん 右)シューゼル・バックさん

しかし、再会がうれしい反面、私たちの間に何かぽっかりと穴の開いたような感じがして仕方なかったのは、ここに居るはずの川本喜八郎先生がその10ヶ月ほど前に亡くなっていたからである。

フレデリック・バックさんはこの2年後の2013年、惜しくも亡くなった。(享年89)

コメント

タイトルとURLをコピーしました