その17 ロシアの映像詩人ユーリ・ノルシュテインさんがやってきた1 

人形芸術の巨匠と歩んだ20年

飯田市川本喜八郎美術館は2007年3月オープンした。そこから2年半ほど経った2009年のある日、川本喜八郎先生から電話があった。「友人のユーリ・ノルシュテインさんに飯田を案内したいのですが、僕の代わりに案内してくれませんか」という依頼であった。

ノルシュテインさんといえば、「霧につつまれたハリネズミ」(1975)「話の話」(1979)と立て続けにアニメーションの金字塔を打ち立て、「映像詩人」の名を欲しいままにした。世界中のアニメーションの愛好家・関係者が敬愛して止まないロシアの巨匠である。私にとっては、カナダのフレデリック・バックさん同様、決して手が届かない雲の上の人、神様のような存在である。

ユーリ・ノルシュテインさん(以降、川本先生に倣い「ユーラ」さんと呼ばせていただく)が来飯する日はちょうど美術館の展示替の日で、先生自身は缶詰め状態になるので、君に頼むという流れであった。

先生からこの依頼を受けて、私でいいのか、えらいことになったという気持ちと、反面、込上げるような昂奮が混ざって、「そうですか・・・」というようなはっきりしない返事をしたことを覚えている。平凡な日常の中に突如訪れる特別な一日、私の当惑とワクワク感とを誰よりも理解し、愉しんでいたのは外ならぬ川本先生であった。

限られた時間の中でどこをどう案内するか、川本先生と相談しながら進めたが、先生は「ユーラさんという人はね、こちら側がどんなに良いと思っているものでも、気に入らなければその場を立ち去ってしまうような人です。良いもの、そうでないものを瞬時に見分けてしまう人です」といって私を脅すのだった。

当日、高森バス停で待ち受け、まずは不動滝を案内した。ユーラさんは自宅近くの湖で毎日のように寒中でも水泳をする人で、滝も好きということを事前学習していた。

ユーラさんは不動滝をずっと黙って見つめていて、やがて「いい滝だ。ここには3本の滝がある。一番大きいのが父親だ、その横の少し小さいのが母親、そして左側の小さな滝は『僕も滝だよ』と語りかけてくるようだ」とつぶやいていた。

この後向かったのは大嶋山瑠璃寺である。瑠璃寺なら開基900年、御本尊の薬師瑠璃光如来三尊佛は重要文化財にも指定されている。案内するのに安全牌という思いがあった。

まず猫神様のいる瑠璃の里会館で滝本慈宗住職と待ち合わせた。この会館は単なる通過点のはずだった…なのにユーラさんは猫神様をじっと見つめていた。「…やばい、早くここを出よう…」と思ったのも束の間、ユーラさんは隣にいた私に、「君、私はカメラを忘れてしまったんだが、これを君のカメラで撮って私に送ってくれんかね。(ロシア語です)」「は、はい、わかりました。(えっこれを撮るの?)」「うーん、目がとてもいい。そうそうアップも撮っておいてくれ。ここからあおりもいいな。そうそれでいい」などの細かな指示も受け何枚も撮った。

さらに館内にある、てぬぐいなどの猫神様のグッズは元より、非売品の小さな置物まで「何とか売ってくれませんか」と住職にせがんで獲得し、至極満足そうだった。住職就任当初に猫神様をこの場に鎮座させた滝本住職は「我が意を得たり」とばかり、ユーラさんと意気投合した。

この後、御本尊を観覧。しかし今度は御本尊を写真に撮ってくれとは言わなかった。日本文化に精通しているためか、写真に撮って駄目なものは見分けが付いているようだ。御本尊の隣には一部壊れかけた小さな塑像の神仏が10体ほどひっそりと置かれていた。ユーラさんはこれに着目。私に「君君、これも撮っておいてくれ。そう一体ずつだ」 

滝本住職は、絶版となっていた「瑠璃寺の秘宝」(飯田市美術博物館図録)を奥から出して差し上げると、ユーラさんは飛び上がるように喜んで「ここにサインしてくださいね」と住職に願い出た。滝本住職は「おれ、サインなんかしたことないよ」と照れながら注文に応えていた。

この後、私はといえば、ユーラさんにすり寄り、サインをせがむのだった。つづく

ユーリ・ノルシュテインさんプロフィール
1941年 ロシア・アンドレエフカ村で生まれる
1975年 「霧につつまれたハリネズミ」
1979年 「話の話」
1980年~現在  ゴーゴリ原作「外套」を製作中
2003年 「連句アニメーション『冬の日』」(アニメーション作家35名による合作)
2004年 旭日小授章(ロシアにおける日本文化紹介とアニメーション発展への貢献)

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