その13 「桃園の会」の発足

人形芸術の巨匠と歩んだ20年
桃の花の下で「桃園の会」が発足

2002年7月、川本喜八郎監督・人形アニメーション「死者の書」の製作実行委員会が設立され、同年9月には「ひとこまサポータープロジェクト」が開始された。このプロジェクトは映画のひとこまを一口1万円として、全国各地のファンが製作支援するというものだった。

このプロジェクトと連動するように、飯田において2003年4月、川本人形美術に学びたい仲間が集まって「桃園の会」を立ち上げた。会長は平栗荘吉さんにお引き受けいただいた。平栗さんは、飯田市内で会社経営していたが、第一線を退かれた頃だった。川本先生には最高顧問を受けていただいた。

この会の名称は三国志の名場面「桃園の誓い」からの引用。劉備・関羽・張飛の3人が桃園で義兄弟の盃を交わし、死ぬまで一緒という誓いを立てる。私たちも周囲を桃の花に囲まれた黒田人形浄瑠璃伝承館で誓いを立てた。

桃園の会にとって「死者の書」は格好の教材となった。2005年11月、「死者の書」の舞台・奈良県葛城市にある当麻寺を10名で訪れた。原作の著者は折口信夫。民俗学者で歌人、当地との所縁も深い。ドイツ文学者の川村二郎氏は、「死者の書」(中公文庫)の解説の中で、「『死者の書』は明治以後の日本近代小説の、最高の成果である。」と評した。

当麻寺に訪れると、背面に二上山がくっきりと、ことのほか近くに見えた。

二上山に埋葬された大津皇子(663-686)は皇位継承を巡り非業の死を遂げたとの言い伝えがあり、当麻寺には中将姫(747-775)と言われる藤原南家の姫が女人結界を侵してまで居留し、寺の御本尊となる蓮糸で織られた曼荼羅を描いたという伝説がある。訪れてみてはじめて折口が描いた物語の必然を感じた。折口との距離がちょっぴり縮まった気がした。

大津皇子と中将姫、生きた年代が百年ほど離れた男女を結びつけるという、折口が創造した時空を超える壮大なラヴストーリーは、宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」や新海誠監督「君の名は。」など、日本アニメの、いわば「霊性サイエンスファンタジー」作品群の底流を築いたのではないかと思える。

持論はさておき、桃園の会は、2004年9月、「死者の書」の撮影現場を会員7名で視察した。現場は、八王子市にある多摩美術大学メディアセンター。私たちが到着すると、忙しい中にも関わらず川本先生以下スタッフ全員が迎えてくれた。

人形アニメーションの撮影は、1/24秒を構成するフィルムのひとこまを撮影しては、人形をほんの少し動かしてまた撮影する、という作業の繰り返しである。ホールが2つに仕切られ、約20人のスタッフが3~4班体制で作業を進めている。多摩美大生の中からも13名がアニメーターとして加わっているということだった。1班あたりの作業量は1日8~10秒。気の遠くなる作業である。

当麻寺の山門のシーンの撮影が厳かに行われていた。また別の班では、ちょうどその頃仕上がってきたばかりという都大路のセットの中で、築土垣を造る風景のシーンが撮影されて壮観だった。学生アニメーターが担当する犬の足の動きがおかしいと騒然とする一幕もあった。

ラッシュフィルム(編集前のチェック用フィルム)を私たちにも見せてくれた。藤原南家郎女が導かれるように万法蔵院(当麻寺の起源)に向かうシーンで、強風で笠が飛ばされ、郎女の長い髪が後ろになびく。以前、川本先生からお聞きした「アニメーションは森羅万象を描くことができる」まさにこの言葉通りだ。余りの迫力に「うおっ」と声をあげてしまった。

それでも川本監督は何度もスタッフと打合せ、悩んだ末、「撮り直しましょう!」と檄を飛ばした。その瞬間、スタッフの皆さんの顔は青ざめたように見えた。川本先生の傘寿を迎えてなお活き活きとした姿だった。

「桃園の会」は2010年に川本先生が亡くなってから運営スタッフのモチベーションが下がってしまい、現在活動を休止していますが、没後十年を経た今、川本人形美術をあらためて顕彰し、学んでいきたいと考えています。

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