東京千駄ヶ谷で生まれ育った川本喜八郎先生が飯田市への人形の寄贈を決意したのは1994年12月。先生は、飯田市が人形劇の祭典を開催し人形劇のまちを標榜していることについては前から知っていたが、1992年以降、飯田を訪れるうちに深く飯田を知ることとなり、「人形の歴史と、人形に対する情熱を持った人の住む飯田をおいて無い、と殆ど総べての作品の寄贈を思い立った」(寄贈提案書より)
川本先生が下黒田諏訪神社内にある黒田人形舞台(1840年建立)をはじめてご覧になったとき、「うわぁ大きいですね」と大変驚かれたのを思い出す。先生のそうしたリアクションを傍らで目にして以降、それまで何の気なしに見ていたものが全く違って見える、という経験が私にはしばしばあった。黒田人形の歴史に関しても然りだった。
川本先生は、黒田の日本最古かつ最大の人形舞台が、50戸程の黒田の人々が負担して建てられたこと。大阪から移り住んだ吉田亀造を共同設計者として、亀甲梁(きっこうばり)によって大きな間口を創出し、黒田の美しい農村風景を借景として公演できるような瀟洒なデザインを実現していること。完成当時幕府の禁制をはねのけて上演した黒田の人々の情熱、といったことに震えるような感動を覚えたという。
さらに先生が最も感慨深く私に語ってくださったのは、黒田の地に淡路の人形師・吉田重三郎がやってきたくだりだ。「伊那谷人形概観と黒田人形」(黒田人形保存会)に生き生きと描かれている。
黒田地区では元禄年間(1688~1703)に正岳真海という僧が人形の芸の種を播き、宝暦年間(1751~63)に舞台まで建てて、人形を始めて30年くらい経ったところに吉田重三郎は現れた。旅やつれしてみずぼらしい姿の重三郎だったが、ひとたび人形を手にするや素晴らしい芸を見せ、呆気にとられた黒田の人々が感嘆の声をあげた。
あの身振りの良さはどうだろう。
人形の表情が生きている。
人形がそんな大層なものとは知らなかった。
大変な人が来てくれたものだ。
黒田の人々は吉田重三郎を師匠とあがめ迎え入れた。黒田の人々は、重三郎の腕を一目で見分ける目を持っていたのである。川本先生は、吉田重三郎について語るとき、二百年以上も昔の出来事とは全く感じていない様子で、「まるで映画のワンシーンを見るようですね」ととてもうれしそうだった。
また、川本アニメーション上映会開催後のアンケートで「人形が生きているようだ」という感想が多かったことについて、先生は、「飯田の長い人形の歴史を反映したものだったんですね」と語り、後にいただいた手紙の中でも「何だか、自分がその昔、飯田の人々の間で人形を遣った吉田重三郎の様な気がしてきて苦笑いたしました」と書いている。
それ以来、川本先生はアトリエスタッフの皆さんと共に、4月に行われる黒田人形の奉納定期公演にほぼ毎年訪れた。
人形舞台を自分たちで負担して建て、禁制を破り処罰を覚悟してまで芝居を打つ黒田の人たちや、飯田に移り住んだ人形師たち、人形の歴史を一つひとつ紐解く人たち、こういう人たちを、川本先生は、限りない尊敬と愛着を込めて「木偶もの狂ひ」と呼び、飯田の人形の歴史に敬意を込めて、次のような俳句を残した。
紙魚食ひに 木偶もの狂ひ 名を連ね
紙魚食ひ(しみくひ)とは古い書物、飯田の人形の歴史そのもの。そこに「木偶(でく)もの狂ひ」が名を連ねている。自分もそこに名を連ねられたい、という先生の切なる願いが込められている。
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