その1 人形・微かな命

人形芸術の巨匠と歩んだ20年
飯田市川本喜八郎人形美術館のエントランスホールの諸葛亮孔明像

2020年8月23日、川本喜八郎さんの十回目の命日を迎えた。不思議なことに8月23日は三国志演義における諸葛亮孔明の命日でもある。孔明が没したのは西暦234年というから2020年は1786回目の命日である。川本喜八郎先生の手による人形・諸葛亮孔明こそ、多くのファンを魅了し、またファンの要望に応えて最も数多く製作された人形であり、川本喜八郎その人を象徴するキャラクターと言えるだろう。

人形劇「三国志」は1982年~84年にNHK総合テレビの18:00から45分枠で放送された。「三国志」人形の製作をしていた当時を振り返り語ってくれた川本先生の言葉を思い出す。

「『平家物語』は絵巻が残っているからそれを忠実に再現しなければならなかったけれど、『三国志』はね、ある程度自由に創作出来たんで、そういう意味では楽しかったですよ。でも諸葛亮孔明の人形づくりは一番苦労しました。なかなか孔明になってくれなくて・・・。作り直して四回目にやっと『私は孔明だ』と言ってくれたんです」

「かしらを作っている時、ああしよう、こうしようといじくりまわしても、決してその人物になってくれません。その人物が向こうから歩み寄って来てくれて、はじめて形を得ます。なにか、生まれ出てくる、と言ったほうがいいあんばいなのです。自分はお産婆さんみたいなものです」

「そして人形は、生まれてきた時には、微かな生命力を持っていて、演技をするときその生命力が全開し、役を終えるとまた微かな生命力に戻るのです」

1981年、私は19歳の時に東京渋谷で、完成したばかりの川本喜八郎監督人形アニメーション「火宅」を見て、それまで見たことのない美しさに打ちのめされた。そしてその印象を抱き続けたまま、1992年、飯田において川本先生をお招きし、アニメーション作品の自主上映会を開催した。以来2010年に先生が亡くなるまでお付き合いいただくこととなった。  川本先生が師と仰いでいた飯沢匡は、川本先生の人形やアニメーションに対する研鑽を「『血の出るような刻苦』を伴っていた」と表現している。私が出会ったときには先生はすでにこの分野で世界の頂点に立っていたので、研鑽の本当のところは私にはわからないが、先生は、亡くなるまで「人形でなければできない表現世界」というようなものを「人形の秘密」と表して、つねに問い続けていたように思えてならない。人形芸術の巨匠が、どんな風に人形やアニメーションに向き合ってきたのか、なぜ飯田の地を愛してくださったのか、私のような人形に真剣に向き合ったことのない人間には到底理解できる領域ではないが、一つの道を究めるということは永遠の憧れであり、20年間先生の後をついて歩んできたつもりである。このシリーズで川本喜八郎先生が生涯探求し続けた「人形の秘密」というものに迫りたいと思う。

飯田市川本喜八郎人形美術館のエントランスホールの諸葛亮孔明像について
木彫りに衣装に合わせた筋彫りを入れ、筋彫りに目打ちなどで布の端を押し込んで衣装を着ているように仕立てた「木目込み人形」。川本先生自身がアトリエに木材とチェーンソーなどを持ち込んで彫り上げた。
私は尊敬の意味を込めて「まるで彫刻家の仕事のようですね」と言ったが、先生は私の言い方をお気に召さない様子で、「場やシチュエーションにどんな人形がふさわしいかということであって、材料や大きさは関係ありません。」とおっしゃった。先生にとって常に「人形」こそが命を賭けた最高芸術なのである。

コメント

タイトルとURLをコピーしました