人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その9 木偶もの狂ひ

東京千駄ヶ谷で生まれ育った川本喜八郎先生が飯田市への人形の寄贈を決意したのは1994年12月。先生は、飯田市が人形劇の祭典を開催し人形劇のまちを標榜していることについては前から知っていたが、1992年以降、飯田を訪れるうちに深く飯田を知る...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その10 彫物の衝撃

1995年4月、川本喜八郎先生は飯田市に対して人形の寄贈提案書を提示した。川本先生の代理人として寄贈提案書をまとめたのは水谷隆さんというフリーのプロデューサーだった。水谷さんは、その少し前、NHK大河ドラマ「琉球の風」で沖縄県読谷村に停泊...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その11 フレデリック・バックさんの来飯

そのアニメーションは、南プロバンスの不毛の荒地から始まる。色鉛筆で描かれた絵が滑らかに揺れるように動く。主人公は、妻と子を失った孤高の老人で、黙々と荒地に一粒ずつドングリを植えていく。何年も何年も老人の行為は続き、やがて森が出来る。森が水...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その12 チェコでの人形修行

2001年6月、「川本喜八郎・わが心の旅/チェコ」ツアーが開催され、全国から28名が参加、私も加わった。このツアーは、NHK「わが心の旅」シリーズで、川本先生がチェコで1年半もの人形修行したときの足跡を辿る番組に因んで、先生自身が企画した...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その13 「桃園の会」の発足

2002年7月、川本喜八郎監督・人形アニメーション「死者の書」の製作実行委員会が設立され、同年9月には「ひとこまサポータープロジェクト」が開始された。このプロジェクトは映画のひとこまを一口1万円として、全国各地のファンが製作支援するという...
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その14 竹田人形座のこと

2006年1月、「桃園の会」は飯田文化会館との共催により、人形美術館開館一年前イベントとして、「人形アニメーション映画『死者の書』鑑賞会」を開催した。 この催しは当初、飯田市公民館ホールを会場として進めていたが、前売チケットがたちま...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その15 遺作「死者の書」に込めた想い

「僕は人形きり出来ない人間ですから」というのが川本喜八郎先生の口癖だった。白状すると、この何気なく発せられる口癖が私にはかなりキツかった。なぜなら、これを聞く度に「自分には何か出来ることがあるだろうか」と自問せざるを得なくなるからだ。 ...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その16 高畑勲さんのこと

川本喜八郎人形美術館オープン1ヶ月前の2007年2月、「桃園の会」は、飯田文化会館との共催により、ゲストに映画監督の高畑勲さんを迎えて、開館前スペシャルイベントを開催。高畑監督アニメーション「パンダコパンダ雨ふりサーカスの巻」(1973)...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その17 ロシアの映像詩人ユーリ・ノルシュテインさんがやってきた1 

飯田市川本喜八郎美術館は2007年3月オープンした。そこから2年半ほど経った2009年のある日、川本喜八郎先生から電話があった。「友人のユーリ・ノルシュテインさんに飯田を案内したいのですが、僕の代わりに案内してくれませんか」という依頼であ...
人形芸術の巨匠と歩んだ20年

その18 ロシアの映像詩人ユーリ・ノルシュテインさんがやってきた2

2009年に川本喜八郎先生の手ほどきで来飯したロシアのアニメーション監督ユーリ・ノルシュテインさん(以下、川本先生に倣い「ユーラさん」と呼ばせていただく)がこれまでに発表した作品は、10本に満たないが、いずれも心に沁みる名作である。中でも...
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