替え難い映画体験
「丹下左膳餘話百萬両の壺」を見たのは1990年頃、木曽で行われた小さな映画会においてである。名監督山中貞雄の作品ということで期待感はあったものの、その時点で50年以上前、日本映画の創世記といってもいい時期にできた作品なので、古典を見るといった心持ちで出掛けた。ところが、映写が始まるや否や、スピード感やユーモアにあふれ、とても清清しく軽快な空気に包まれた。そして何よりどこを切り取っても日本的な詩情に満ち溢れている。普遍的なテーマを描きぬいた秀作は世界に多くあるが、それが私たち日本人の心に染みる人情に貫かれればもっと感動は深い。この荒唐無稽な娯楽大作に腹の底から笑い、同時に涙を流している自分があった。あぁこんな作品を求めていた、と気付かされるそんな映画だった。私の映画体験はこのときを超えるものは未だない。
この作品が作られた1935年は、翌年に2.26事件を控えた不安定な世情の中にあった。そういう時代背景に一見無頓着に作られたかに見える山中の作品は、小津安二郎作品と同様、何ら積極的な主張をしていない=エスケープ映画、あるいは小市民映画と批判されていた。しかし、むしろ時代の波に流されることなく人間そのものをテーマに据えたことが、世界性を獲得し、時代の風雪に耐えることになったことは、これまでの映画史が証明している。加えて、時に韻文作家と形容された山中は、間接描写による暗示やシーンの省略、後景と前景とを使った縦の構図、小道具による情景描写などに独特な表現形式を持ち、劇や人物に対する態度を客観的にしている。それが70年たった今なお古さを感じさせない理由であるのかもしれない。
一般に丹下左膳といえば、隻眼隻腕の悲壮なニヒリストというキャラクターであるが、気短かで人がよく、情にもろい「人間」としての丹下左膳を山中は描き出した。これが原作と大幅に異なっていると原作者林不忘が抗議したため、タイトルに「餘話」が付され、クレジットから原作者の名が削られた。このエピソードが物語るように、登場人物たちを、それがたとえ特異なキャラクターであっても自分の側に引き寄せ、共感できる身近な存在に移し変えるのが山中の作風といえよう。
冒頭、「名監督」山中貞雄と書いた。事実、今や小津安二郎や黒澤明や溝口健二と同じく巨匠のように扱われる。ただし、29歳という若さで戦場から還らなかった夭逝の映画作家であり、この「百萬両の壺」は若干26歳の作品なのである。信じがたいことだが、山中は黒澤明の1歳年上でありながら、黒澤が処女作「姿三四郎」を監督する数年前までに、実に23本に余る監督作品を手がけた。その中で現存するフィルムがたった3本というのは残念なことだ。しかし作品に触れることで、生き生きと高揚しまた苦悶していた若き映画作家・山中貞雄の魂に出会うことができる。やっぱり「映画」は素晴らしい!
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