その10 彫物の衝撃

人形芸術の巨匠と歩んだ20年
左)飯沢匡さん 右)川本喜八郎さん(1989プラハにて) 🄫有限会社川本プロダクション

1995年4月、川本喜八郎先生は飯田市に対して人形の寄贈提案書を提示した。川本先生の代理人として寄贈提案書をまとめたのは水谷隆さんというフリーのプロデューサーだった。水谷さんは、その少し前、NHK大河ドラマ「琉球の風」で沖縄県読谷村に停泊する船の製作などを請け負い、その仕事ぶりから「どんな難題も解決できる人」との評判が立った。この評判を聞きつけた川本先生が代理人として依頼したとのことだった。

水谷さんは、飯田市への提案後、市から人形美術館構想のための研究会アドバイザーとして業務を受託、十数回にわたり飯田を訪れることとなった。水谷さんは、市の業務だけで来飯するのはもったいないと言い、無償でプロの作詞家向けの教室を、市内でライヴハウスを経営する桑原利彦さんらの協力を得ながらはじめた。当時、水谷さんは、ドラマ・音楽などマルチプロデューサーとして活躍していたが、折しも音楽業界では小室哲哉氏が台頭してきて一大旋風を巻き起こした頃で、水谷さんもほどなく音楽プロデュースの会社を立ち上げた。

私たちにとって水谷さんは、情報やネットワークを豊富に備え、時代の寵児と思えたが、音楽プロデューサー群雄割拠の業界に飲み込まれてしまったためだろうか、ぷつりと連絡が取れなくなってしまった。

水谷さんが飯田に来始めたある日、川本先生と水谷さんと私の三人は阿智村のカフェ・十字屋でコーヒーを飲んでいた。その頃十字屋には日帰り温泉が併設されていて、水谷さんが「面白い!温泉に入ろう」と言い出し、三人で入浴となった。

浴室で私は川本先生の背中を見て、体が凍り付き顔が上げられなくなった。先生の背中には実に鮮明に、上り龍と下り龍の二頭の龍の刺青が全面に彫られていたのである。私は、色彩の鮮やかさと迫力と衝撃のために、この絵が脳裏に焼き付いてしまった。三人で湯船に入りながら、私は恐る恐る顔を上げ先生に尋ねた。「その背中の刺青はどうされたのですか?」と失礼な聞き方だったのかも知れない。先生は「飯沢先生がね…」と語り始めた。

飯沢先生というのは戯作者の故飯沢匡。特にNHK「ブーフーウー」の製作など児童文学・人形劇などに極めて造詣が深い。ちなみに三匹の子ぶたの名前として世に定着している「ブーフーウー」は飯沢氏の命名によるものである。川本先生が生涯の師と仰ぐ二人のひとりだ。ちなみにもう一人はチェコのアニメーションの巨匠イジィ・トルンカである。イジィ・トルンカ作品を川本先生に紹介したのも、チェコへの人形修行に背中を押したのも飯沢氏と言う。湯船につかりながら川本先生は続ける…

「これから人形を一生の仕事として選んでよいものか、人形は女性のもので、男子一生の仕事としては価値があるのだろうかと迷っている、という相談を飯沢先生にしたときに、飯沢先生がね…僕の相談には全く取り合わず、『そんな迷いは、背中に刺青を入れちゃえば消し飛んじゃうよ』と言ってくれた、それで刺青を入れたんです。『できるもんならやってみろ』という気持ちでした」

因みに飯沢匡氏は「原色日本刺青大鑑」という専門書を監修しており、刺青の大家でもある。川本先生が彫り始めたのは31歳というから1956年頃。彫り終わったのはチェコ修行(1963年)の直前だったという。

川本先生が以前私によく話してくれたことを思い出した。「人形も、アニメーションもね、はじめは『子供だまし』と扱われ、文化・芸術として認められていなかったから大変だったんですよ」

川本先生は常に質の高い作品を発表し、国内外からゆるぎ無い評価を得てきたが、創作をはじめた当初は、「なんだ人形か」「なんだアニメか」というような偏見に苛まれて苦しんだに相違なく、おそらくこの背中の彫物が先生の自信と踏ん張りを支え続けたのだろう、と私は湯船で少しのぼせながら想像した。

飯沢 匡(いいざわ ただす)プロフィール
1909 和歌山市で生まれる
1933 朝日新聞社に入社 アサヒグラフの編集長を務める
1954 朝日新聞社を退社。ラジオ・テレビに進出
1960~ NHKテレビ「ブーフーウー」など子供番組を手掛ける
1994 死去

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