その20 最期

人形芸術の巨匠と歩んだ20年

川本喜八郎先生が亡くなる3ヶ月半程前の2010年5月3日、飯田市美術博物館で、川本先生と慶應義塾大学講師・平井徹さんのお二人が講師となり、「三国志講座」が開催された。川本先生と平井さんが毎年のように旅した「三国志に纏わる史跡」がテーマとなっていた。

飯田市美術博物館で行われた「三国志講座」(2010.5.3)

講座の中で特に面白かったのは曹操孟徳の墓の話で、訪ねようにもなかなか見つからず、地元の方に案内された場所は付近住民のゴミ置き場になっていた、という話だった。諸葛亮孔明の墓「武侯祠」では孔明は神様として扱われているし、関羽雲長の墓は商売の神様「関帝廟」として、横浜はじめ世界中に存在している。これらに対して曹操の墓の扱いはどうしたものか、という話題提供であった。

しかし実は、曹操の墓「曹操高陵」は2008~09年の発掘により特定され、近年話題となった。2019年には東京国立博物館特別展「三国志」において、曹操高陵の出土品が川本喜八郎人形とともに展示されたことにも深い縁を感じた。

2019年 東京国立博物館特別展「三国志」より 川本喜八郎人形

飯田市美術博物館での講座のとき、川本先生は大きな手術を終えて1か月半程度しか経ってなかったと記憶しているが、病み上がりのはずの当時85歳の記憶はいつも以上に冴えわたっていて、先生よりも50歳くらい若いと思われる平井さんの記憶を補正するような場面が何回かあった。私は先生のことを「この方は不死身だ!」と心底思った。

その講演会から2ヶ月程経ち、先生の容体は急変した。意識が失われたという。先生の自宅に近い慶応義塾大学病院に入院した。やがて意識が戻り、同年8月3日、私は見舞いに訪れた。病室から明治神宮の聖徳記念絵画館のドーム状の屋根が見えた。先生は入院していること自体よくわかっていないご様子で、窓の外の景色を眺めながら何回も何回も「不思議ですね」とつぶやいた。私はその度「そうですね」と答えていた。

慶応義塾大学病院の窓から見える聖徳記念絵画館のドーム状屋根

 病院の11階のレストランで、川本先生と福迫福義さん(現・川本プロダクション社長)と私の3人で一緒にランチをとった。その折、私は飯田市川本喜八郎人形美術館(以下「美術館」)の状況を話したが、先生は美術館そのものの記憶が失われていて、美術館が存在していること自体に「本当ですか?」と驚かれた。

 その時、私は、天下第一の弓の名人の生涯を描いた川本アニメーション「不射之射」(1988)のラストシーンを思い出した。的を射るのに弓を必要としなくなった究極の弓の名人の話。部屋に飾られた弓を見て、名人が「あれは何と言うものなのですか?」と訊ねるラストシーンである。

「不射之射」(1988)ラストシーンより

 私がさらに美術館の話をしていると、ご自身の作品が展示されていることについて、神妙な顔をされ「怖いですね」とつぶやいた。かつて、美術館が実現するかどうかもわからないときでも「僕は決してあきらめない人間ですから」と、先生は常に前向きだった。また、美術館建設が決まった時や、オープンの時には心の底から喜んでおられた。しかし、心の奥ではずっと「怖い」という感情を持ち続けていたのかもしれない。

 私は先生に「まだまだ作品づくりが待っています。『李白』の構想を実現してもらわないと…」と話しかけたが、「もう無理ですかね」と先生。「いえいえ、先生の作品を待っている人が世界中に居ます」。先生は「そうですかねぇ」と言いながら、お聞きしたことのない外国人の名前を何人か挙げていた。これが、私が先生と会話した最後の時間である。

 川本先生の作品づくりに対する凄まじいまでの執念、あるいは世の中の不条理や国の在り様について語るときに稀に見せる猛々しさは完全に姿を消した。

 先生がよく話してくださった人形にとっての永遠のテーマ「執心と解脱」。「『執心』の先にあるものそれは『解脱』です」この言葉そのままのように、2010年8月23日、穏やかに息を引き取られたそうである。

 「もう一回生まれ変われるとしたらどうすると言われたら、同じことをしたいですね」と語っていた先生。今はあの世で、フレデリック・バックさんや高畑勲さんのような多くの友人に囲まれて、安らかに過ごされているに違いない。(シリーズ終わり)

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